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【UKP OFFICIAL INTERVIEW】THE★米騒動『輝かしい未来へ』インタビュー

こんなにも破格の音を出すバンドが活動休止することを、心の底から残念に思う。3rdアルバム『輝かしい未来へ』をリリースしたTHE★米騒動が、既報通り、5月30日の下北沢CLUBQueでのライヴをもって、その活動にひとまずピリオドを打つ。アルバムのとある箇所にはあっけらかんとしたイラストとともに「一旦さようなら!」とメッセージが書かれていて、それを見ると、3人は休止を前提に本作を作り上げたことがわかる。それは、せつないし、ホロ苦いことに間違いない。

しかし当の本人たちはライヴでも、また取材という場でも、そうしたウェットな感情を見せていない。それはすべての事態が少しずつ進行し、3人はそれらに精一杯向かい合ってきた結果、行き着いたことだからでもあると思う。だからこの取材では、そのどうしようもない背景を知るためにも、また、そんな中で米騒動がどんな表現をしているのかを確かめる観点からも、バンドの成り立ちからここまでの歩みを捉え直す意義があるはずだと考えた。そのため、かなり長いインタビュー記事となっている。なお、この取材現場にベースの沖田笙子は欠席。それも学業のためと聞いて、すでに3人は次の人生に向かっている事実をあらためて認識した。
石田愛実と坂本タイキは、とても正直に、ありのままを話してくれた。その発言を読み返して思うのは、このバンドはやれ10代がどうの若さがどうのと言われまくった一方で、世間一般の高校生バンドが持つ「青春の1ページ」的な甘酸っぱさが極端に低かったこと。いや、そうした部分もおそらくゼロではないのだろうが……それだけ、ほんとに特殊な次元で音を鳴らしてきたバンドなのだと思う。ラウドでパワフルなのに、どうにも特異で、ひと筋縄ではいかない楽曲群。そして石田の冷徹すぎる心象風景が表れた歌。そもそも壁にブチ当たって休止していく自分たちの作品に『輝かしい未来へ』と名付けるとは、なんて皮肉屋なのだろうか。
ここでの発言の内容も、そうした音楽の構成要素とブレることなく貫かれている。思わず微笑んでしまう話も、また、砂を噛むような気持ちになってしまうことも盛り込まれた記事になっていると思う。冷静ゆえに、クールな性格であるがために、このバンドはここまでやって来れて、それゆえにここで止まるのだ。夢を見たがる音楽ファン、現実を見なければと思っている人、みんなに読んでほしいインタビューである。そしてTHE★米騒動のことを、どうか心に焼きつけておいてほしい。[取材・文/青木優]


–今日はバンドの結成からここまでの流れから聞かせてもらおうと思います。米騒動の結成は2008年、今から6年前ですね。

石田愛実(ギター&ヴォーカル):はい。もともと、みんな同じ高校で、1年生の時に軽音楽部に入ったんですよ。その時、1年生が40人くらい集まったんですけど、うちの部はすっごい厳しくて。先輩と廊下ですれ違ったら絶対に自分から目を合わせに行ってあいさつしなきゃいけないし、それに気づかずにスルーしたら次の部活の時に名指しで注意される、みたいな感じで(笑)。

–うわ、それは厳しいですね。

石田:上下関係も超すごくて、ほんとに怒鳴られたりもするし、でも機材を大事にすることも教えてもらえたんですけどね。で、最初、入部希望の時にその脅しをかけられるんですよ。その時点でめっちゃ減って、結局入部したのは20人くらいで、その中に私と沖田と坂本がいたんです。残った中では女の子はもう4人か5人ぐらいしかいなくて……怖いから女の子、固まるじゃないですか(笑)。それでまず沖田と知り合い。それで最初の課題的な感じで「バンドを組め」と言われて、希望のパートを訊かれて。ほんとにたまたま集まったのが3人だった……ん? あ、最初は4人いたんですよ。

–あ、もうひとりいたんですか?

石田:そう、ギターの女の子がいて、それで最初、BEAT CRUSADERSのコピーをやって。で、すぐ抜けたよね?

坂本タイキ(ドラムス&ラップ):うん。わりと仲悪くなって(笑)。

石田:そう(笑)。それで、なりゆきでこの3人になり、「もうビークルできないねー」みたいになって。で、凛として時雨とかBLANKEY JET CITYとかモーサム・トーンベンダーとかのコピーして。雰囲気だけだったけど、けっこういい感じになって。

–そうか、トリオ・バンドをコピーしてたわけですね。

石田:はい。それから高校2年生の時にオリジナル曲を作りはじめ、YAMAHAのMusic Revolutionというオーディションに出て。それまで軽音楽部以外でライヴをやったことがなかったんですけど、そこで初めて外でライヴやったら、うっかりジャパンファイナルまで残って。品川ステラボールだったんですけど、やっぱりYAMAHAなんで、うちらだけ超浮いた感じで出てて。あとは弾き語りの女の子と超ポップスなバンドみたいなのが10組ぐらい。そこではYAMAHAにちょっと唾つけられたみたいな感じで終わったんです(笑)。審査員、秋元康だったんだよね。

坂本:秋元康に俺らの演奏見せれたっていう(笑)。

–へえー、そんなことがあったんですね。

石田:「オーディションとか意味なくね?」「べつに全然売れないし」みたいな感じで。それで札幌で、その軽音楽部内で曲作りながら「楽しいね」みたいな感じでやることにしたんです。で、Music Revolutionの予選には札幌のちょっとアンダーグラウンドな感じのバンドも出てて、そのバンドが「米騒動、カッコいいから俺らの企画に出てよ」みたいな感じで、初めてライヴハウスに出るようになったんです。札幌でもうちらと同じようなジャンルのバンドはいっぱいいるし、その中で仲良くなって、どんどん仲間も増えてって……その頃は学校帰りに制服着てライヴして家に帰る、みたいな感じでやってました。

–ライヴはけっこうやってたんですか?

石田:むっちゃやってました、ライヴ自体。月3本とか出てたよね?

坂本:うん、出てた。

石田:あれがやっぱり場数になったと思うし……ライヴのやり方とか、ライヴハウスの仕組みとかもそういうとこでどんどん覚えてったし。で、そんなこんなやってるうちに札幌のSPIRITUAL LOUNGEっていうハコによくしてもらって、うちらのホームみたいな感じになって、そこのPAに安食さんっていい人がいて「ソニーの新人発掘の人から『<閃光ライオット>に出れるようないいバンドいないですか?』って来たんだけど、米騒動出していい?」って言われて。それを締め切りの2日か3日前とかに言われたんだけど、音源とか一切なかったから、とりあえずライヴハウスが終わった夜中に一発録りで録って、安食さんがプロトゥールスでMIXやってくれて、「これでいいっしょ!」って感じで、全部送ってくれて。

–それが2010年、高3になった年のことですよね。閃光ライオットに応募することはどう思ったんですか?

石田:「タダならいいよね」みたいな(笑)。閃光ライオット、どういうイメージだった? 最初。

坂本:札幌はGalileo Galileiが優勝してたし、その前の年はSHIT HAPPENINGか。でも挫・人間とかズットズレテルズとか、けっこう面白いバンドも出てたから、出る価値のあるものだなとは思ってました。

石田:それで応募してもらったらソニーの人から電話来て、「一次審査通ったので、二次審査に来てください」って言われて。で、二次審査の札幌予選は専門学校のスタジオ内で審査員の前で演奏して、そこでめっちゃ褒めてもらって。そこで60バンドぐらいいて、2日間に分けてオーディションやってて、それで三次予選がもう1回札幌であるはずだったんですけど、そこに上がったのがうちらだけで。それで東京の三次審査にぶっこまれたんですよ。で、東京でやって、初めてモッシュとか起きて。「わー、怖い~」ってなったけど(笑)。

–(笑)怖かったんですか。

石田:そう(笑)。こういう、ちょっとふてくされたようなキャラだから、やる前からスタッフの人が「もう好き勝手やっちゃってよ」「何やったっていいから」みたいに言ってくれたんだよね。

坂本:うん(笑)。

石田:だからライヴでめっちゃ暴れまくった末に、最後、坂本がドラムセットの上に乗っかり、ドラムセットに立ってるマイクスタンドをつかんで、バタッと倒れたんですよ。それでマイクスタンドがボキッてなっちゃって……ライヴ審査は私らのあとにもバンドがいるのに、壊れちゃったから、スタッフの人にめっちゃ嫌われて(笑)。

坂本:……「何やってもいい」って言われたんですよ!(笑)

石田:そう、「『何やってもいい』って言ったじゃないですか」みたいな感じで(笑)。あとから聞いた話では、結局そのスタッフの人が弁償してくれたそうですけどね。それでその三次審査の結果はラジオの生放送で発表するってことだったんですけど、マジで何も聞かされてなくて。その生放送を聴いた人がツイッターで「米騒動入ってたよ」「マジか!」みたいになって。それでジャパンファイナルに出たんです。それが(東京)ビッグサイトに1万人ぐらい集まってる無料のイベントで、そのゲストにDragon Ashが出てて。で、ライヴやって……Kjが演奏終わったあとに声かけてくれて。

–へえー! そうなんだ?

石田:「米何とかでしょ? めっちゃ良かったよ!」みたいに言ってくれて、「あ、あっ、ありがとうございます!」って(笑)。それで優勝発表で全バンドが登壇して、「THE★米騒動です!」って発表されて、ワーッ!てなって。そこでDragon Ashが「やっぱり来ると思ってたんだよ」みたいに言ってくれてたのをスペースシャワーが流してくれて。あの時のDragon Ashはすごかったな、と(笑)。

坂本:ブログでも書いてくれてたしね。

石田:うん、感動したよね。それで……実はうちらは、そのちょっと前にメンバー内で揉めてて。

–それは何でですか?

石田:不仲になってしまって、その三次審査と優勝の間に「もう米騒動、解散する!」って決めてて。でも閃光ライオットには出て終わろうと思ってたから、さっきの登壇して「ひとことください」って言われた時に、普通に「うちら、解散するんですけど」みたいに言って。1万人の前で。それで「はあ?」みたいな感じだったね(笑)。それで「解散するの?残念だなあ」ってみんなに言われてたけど、うちら的には札幌戻って、賞金の100万円もらって「やったー!」ってなって、そのまま「じゃあ次のバンド、何やる?」みたいになってたけど。ソニーから召集かかって、「いいバンドだし、ここまで来たんだから、名前も知れ渡ってるし、もったいないじゃない?」「どうにかして続けることできないか」みたいに説得工作されて。それで……その解散の原因は、私には全然、関係ない問題だったから。

–ああ、そうだったんですね。

石田:それでメンバーに「私のために続けてください」みたいなお願いをしまして。まあメンバーもその時は全然子供だったし、無理矢理続けはじめたら、目の前の問題もどうにか時間をかけて折り合いつけれるようになって。で、札幌のライヴに、知らないうちにいきなりソニーのKi/oon Records(当時)の社長の人とUK PROJECTの社長とあとでUKの担当になるちょっと変わった若い女の子がライヴ観に来てて。紹介されて、社長なのに、この人達なんか変と思いながら「はあ、こんにちは」と言いながら話を聞いたら、「Ki/oon RecordsとUK PROJECTが一緒にレーベルをやろうと思っていて、そこの第1弾のアーティストとしてどうですか?」みたいな感じで誘われて。UK PROJECTって知らなかったから調べたら、銀杏BOYZとかめっちゃ出てて、「これは面白いんじゃない?」みたいな。「メジャーっぽいけど、インディーズっぽいよね、面白いよね」って。それでUKがマネージメントっぽい感じでやってくれるようになったんです。

–そうですか。その頃、高3ですよね? みんな、そもそも進路についてはどう考えてたんですか?

石田:そう……そうなんですよ(笑)。高校3年生の中ぐらい……たぶん12月ぐらいに契約結んでもらって。そこで、札幌在住でやるという話になったから、道外の学校には絶対進学できないことになって。私、もともと高校で美術の学科で、北海道には美大ないので、道外の美大へ行くことが決まっていたんですけど、バンドをやることになったのでそれをあきらめて、札幌の美術の専門学校に進学を決めたんですよ。沖田は札幌の普通の大学に入って、坂本は多分何も考えずにフリーター、みたいな(笑)。

–2011年の春からですね。坂本さんは進学とか就職しようとは思ってなかったんですか?

坂本:しようとしてなかったですね。それはいいかなぁと。音楽やりたいなあと思ってて。

石田:それで卒業して、本格的に音楽活動を始めるって感じだったんですけど、進学したので、まとまって時間がとれるのが春休みしかないってことで、卒業して入学するまでの1ヵ月で、一気にレコーディングして……。それを6月に1stのリリースしました。

スタッフ:そういえば、そのレコーディング中に地震が来て、大変だったよね。

石田:ああ、そうだ。その日は1stのレコーディング中でエンジニアの岩田さんちの地下室のスタジオで演奏してたんですけど、上にあるエンジニアのブースで録音した音源を聴いてる時に地震が起きて……。でも続行したんですよ、そのまま。

坂本:ダメって言われたけど、こっそり続けたんですよ。

石田:そう。ソニーは「全員、自宅待機になりました」みたいな命令が出されたんですけど、札幌から来てるから自宅待機つっても帰れないし。帰ったふりして、内緒で続けよう、みたいな感じで自分達だけでこっそり……。だけどあの時、余震がすごかったじゃないですか。地下室でやってて、演奏してる時に大きな地震来たらドア開かなくなるかもしれない、みたいな。今思い出しても、むちゃ怖かったよね、あれ。

坂本:こっちは演奏中でわかんなかったけど「さっき揺れてたよ」って言われて。シャレになんない。

–それでできたのがデビュー・アルバム『どうでもいい芸術』だと。これはどんな作品にしようというアイディアがありました?

石田:あれは高校生の、そん時までに作ってた曲を全部ギュッと詰め込んだ感じですね。だからそれまでの3年間やってきたことの集大成みたいな感じになってると思います。

坂本:このアルバム、ジャケットが大変だったんだよね。あれ、1個下の男の子に描いてもらったんですけど。

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THE★米騒動 / どうでもいい芸術

–これは何で描いてるんです?

石田:シャーペンです。0.38mmのシャープペン。これ、1週間みっちり描いてやっと出来上がるんですよ。できたのをUKの当時の担当に出したら「これダメ」って言われて……その時の後輩の顔が忘れられない(笑)。その年は1st出して、8月はフェスにいっぱい出ましょう、みたいな予定になっていたら、ほんとにROCK IN JAPANとRISING SUNに出ることが出来て。その年末にはCOUNTDOWN JAPANにも出れて。だからレコーディング終わって、盤出て、すぐフェス出て、みたいな感じで、どんどんトントン拍子に進んでっちゃって……ほんとに恵まれていて、うれしいけど、心が追いついてなかった。

–じゃあ2011年は怒涛のように過ぎていったわけですね。

石田:そうですね。1月にSCHOOL OF LOCK!の企画で、くるりと大阪のファンダンゴでやらせてもらって、アッという間にはじまって終わってた、みたいな。

坂本:そうですね……ちゃんとしたレコーディング、はじめてだったんで緊張して大変だったなあ。フェスにもいきなりバーッと出て。

–それも、ずっと札幌に住みながらですよね?

石田:そうですね。単発で、その都度飛行機で出てきてました。最初は大変だったな。もう今は全然慣れちゃって、寝ながらでも空港行けるようになったけど(笑)。でも、ギターと機材と荷物持って、満員の山手線に乗るのがイヤだし、電車賃けっこうかかるし。とにかく、東京は人が多いし、蒸し暑いし、東京は今も苦手ですね。だから東京に住むの無理です。

–で、石田さんは、学校のほうは?

石田:学校は、年末ぐらいまで行きましたが、もう脳ミソ破裂しそうになって(笑)……課題がものすごく多い学校だったんですよ。毎日やらないと間に合わないんで、帰ってきてから3時間ぐらい課題やって消化して、かつ、お金ないからバイトもしてて。で、スタジオ入って、しかも曲も作んなきゃいけないし、みたいな。そんな感じでやってると睡眠時間を削んなきゃいけなくて、なのにフェスとかライブがボンボン決まってるし……。これはいったんケジメつけて、バンド一本でやってかないと自分がダメになっちゃうと思って。今やりたいことを一番優先しようと思ってバンドの方に絞って、COUNTDOWNのちょい前に休学したんですよ。

–そこでバンドだと思えたのは、どんな気持ちからなんですか?

石田:やっぱフェスがボンボン決まってたのが一番大きかったですね。

–スケジュールのほうなんですか。でもバンドの活動については、そうして予定がいっぱい入ってたり、リアクションもあったりしたわけですよね。それに対してはどう感じてたんですか?

石田:いや、知らないうちに、知らない人たちが私たちの音楽聴いてて……。

–(笑)知らないうちに。そう思ってたんですか?

石田:はい。それまでは札幌でライヴやって、「米騒動良かったよ」って言ってくれる人たちが聴いてたけど、その時はまず全国に発信されてるっていう事実が具体的に、全然理解できなかったっていうか。全然知らない土地の人たちがCDショップでCD買ったり、YouTubeで動画観たり、そういうことで知られているっていう実感がまだなかったから……すごい不思議だったんですよね。ROCK IN JAPANが最初に出たフェスだったんですけど、知らないキッズたちが首にタオル巻いてうちらの音楽でモッシュしてることが、「君たち、どこであたしらの音楽聴いたの?」って感じで(笑)。実感がなかった、全然。今はもう慣れちゃったけど、そん時はすごい不思議だったんですよね。

–不思議だけど、うれしかった、ということですか?

石田:うーん、うれしかったっていうか……話がポンポン、うまく進みすぎだなぁって感じでした。自分が用意する前にどんどん進んでっちゃうというか。今はとくにネットとかもあるから、そうだと思うんですけど。

–坂本さんはどう思ってました?

坂本:うーん、「こいつら、ほんとに俺らの音楽をいいと思って踊ってるのかな?」と思って。

石田:フェスに関しては、そうだね。

スタッフ:フェスのあとでツイッターに、音楽ちゃんと聴いてもいないのに、ただ盛り上がりに来てる奴ら、みたいなこと書いてましたよね。

坂本:書いた。

石田:そしたら、むっちゃキレられたな(笑)。

坂本:いやぁ、「後ろのほうでヘンな踊りして、音楽聴いてもいないし見てもいない、お前ら、何しに来てんだ?」っていうようなことをツイートしてね。

石田:そしたら「アーティストって自覚、なさすぎない?」みたいな返事が沢山ね(笑)。

坂本:いや、もう俺からしたら、そいつらがリスナーっていう自覚ねえな、と思って。でも今は「そういう楽しみ方もあっていいんだな」と思うようになりました(笑)。酔っぱらってたら俺も音楽そんなに聴いてない時もあるし。騒ぎたい時は騒げばいいし。と少し大人になりました(笑)。

–(笑)そうですか。で、2012年は2ndアルバム『十九歳でぜんぶ終わる』が出た時なんですが、その頃は石田さんは学校を辞めて、バンドのペースがつかめてきたところはあったんでしょうか?

石田:それが、学校辞めたら辞めたで、すごく煮詰まってしまって。「これを主軸にして、これしかやることないんだ」ってなると、もう頭ん中真っ白になっちゃって。何やればいいかわかんないな、と。それもあって、2ndの曲作りはかなり難航して……「何月にCD出したいから何月までに何曲作ってきてください」って言われて、「そんなに作れないな」って思いながら、無理矢理に出力してた感じだったんですよ。急いで曲作って、なんとかまとめて、元ナンバーガールの中尾健太郎さんとエンジニアの釆原さんの助けをかりて、なんとかレコーディングして、はい、出す!みたいな感じになってしまったんで。2ndは今思えば、あまり……精神衛生的に良くない思い出が多くて、そん時はもう必死だったから、今でもよくわかんないんですけど。

–そんなふうでしたか? 彼女は。

坂本:そんなふうでしたね。ツラそうでした。バンドも進んでねえなあっていう感覚もあって、俺も「どうしたらいいのかな?」って思ってた……。

–進んでないとは、どういうふうに感じてたんです?

坂本:何だろうなあ……1stがいろいろ評価されて、「2ndはこういう感じにしよう」と考える時に、石田が作ってきた曲を俺が否定的に捉えてしまったり……「いや、そういう感じかあ?」みたいに捉えがちだったかもな。俺もどういうふうなスタンスで2nd作っていいか、わかんなくて、窮屈な感じがバンド内にあった時期だと……思わない?

石田:うん。3年間やってきたことを1stで総集編みたいに出したのに、それが米騒動として捉えられたから……ちょっと1st出すのが早すぎたな、って。でもあのタイミングしかなかったなと今は思えるんですけど……あれを米騒動だと思われちゃうと、2ndは何すればいいんだろう? ああいう曲書かなきゃお客さんにウケない、ヤバいヤバいヤバい……でもあんな曲、今は書けないよー、みたいな強迫観念があったんですよ。すべて。それがメンバーにも伝わって、「う~ん」みたいな気持ちをかかえたまま、なんとか作った、みたいな。

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THE★米騒動 / 十九歳でぜんぶ終わる

–そうですか。僕は、2ndは2ndで、作風を広げてる印象を持ったんですけどね。

石田:ほんとですか? いやぁ……大変だった、っていう記憶しかないですね。

–じゃあ2ndを出した頃はどんな感じでした? ライヴもたくさんあったわけですよね。

石田:そうですね。2ndを出した時は仲いいバンドも全国各地にできてきてて、一緒にツアー廻ったりして。RISING SUNとかも出て、ライヴもいっぱいやりましたね。でも曲作りも並行しようとは思ってたんですけど……2nd出してから、もう全然何していいのか、わかんなくなっちゃって。

–何していいか、わかんなくなった? とは?

石田:ほんっとに曲作れなくて。その次の年(2013年)もまたアルバム出そうって話もあったんですけど、それに間に合うような曲数を全然作れなくて。煮詰まりすぎて、そのあたりから実は「もう米騒動、これは長く続けたらあかんわ」と思ってたんですよ。長く続けられないなぁと……これから、もっと苦しみながら曲作って、溜めて、なんとか1枚出して……みたいなのをずーっと何年も続けていくのかと思ったら、超……鬱でしたね。まったく先が見えない暗闇の中にいる感じで。

–うーん。そのツラさは曲が書けないことが大きいわけですか?

石田:そうですね……曲が書けないのに加えて、周りのバンドが4つ打ちでどんどん売れてくっていうのがプレッシャーになって。たしかに4つ打ちで踊れる音楽って今はすごく楽しいと思うし、そういうバンドのライヴ観てて「ああ、いいなあ」って思うけど。でもそういう音楽を全然やりたくなかったから……っていうのもあって。で、私が大好きなバンドって、残念ながらみんな売れてないんですよ。今、現役でやってるバンドでも。SuiseiNoboAzとか超大好きで、対バンもいっぱいしたんですけど、結局、全然売れなくて終わっちゃったじゃないですか。こんないいバンドが評価されない今の音楽シーンって何なんだろう?と思って……10年前とかだったら、私はボアズでも音楽で食っていけたと思うんです。だけど、いい音楽がどんどん埋もれていってしまう音楽業界の仕組みっていうか、今の音楽ファンの指向というか……もう自分の美学やポリシーだけじゃ全然やっていけないっていうことに絶望して。自分の「カッコいい音楽だけやりたい」みたいな気持ちだけじゃ全然食っていけないし、結局バンドやりながらフリーター続けて安い時給で保証もなくやんなきゃいけないから。それで全然、魅力を感じなくなっちゃって。

–うーん……深い問題ですね、それは。

石田:だったら、札幌にいて……札幌のシーンでやってる人たちって、いっぱいいるんですよ。30代40代になっても、自分で仕事やりながらやってるバンドマンがいるし、札幌の音楽シーンのファンもいるし。そういう場所で何10年も続けていくほうが自分の好きな音楽をずっとやってられるし、さっき言った意味での苦しい思いもしなくて済むんだったら、それをやりたいなと思って。それで2nd出した次の年の11月に、スタジオで私は「米騒動を活動休止するか、札幌だけで活動したい」っていう話をメンバーにして。そしたらその時、沖田さんが「私も実は学校行きたいから、米騒動辞めたいって言おうと思ってたんだよね」って言って。そこで私と沖田さんがバンド辞めたいって思ってたとわかって、そしたら坂本さんが……。

坂本:激萎え! 激萎えしたんです(笑)。

石田:(笑)そんな感じだった。私的にはレーベルとの契約を全部切って、札幌の音楽シーンを盛り上げていきたいなあっていう気持ちもあったからそう説明したけど、沖田さんが辞めるとなったら話は別じゃないですか。それで「どうするべ?」って話になったら、坂本が「これはもう解散だ!」って言いだして。「解散」って言われて、「解散かあ……私は解散する気はなかったなあ」と思って。それで考える時間が必要だなと、今まで7年も続けてきて、一日二日で考えられるような話でもないだろうな、と思ったんですけど、すぐに坂本が自分のツイッターに米騒動解散しますって書いてましたね。でもライブはそのあと何本か決まってたんで、ちょっといやな気持ちで練習スタジオにとりあえず入って、バン!って音鳴らした時に、ね? 坂本さんが……。

坂本:カッケー!と思った(笑)。これは絶対のちのちやりたくなる!解散じゃねえなあ、と思って。単純にそれだけですね、解散という選択じゃないなって思った理由は。「俺ら、こんなにカッコいいのやってたんだ!」と思ったんですよ。あれは、いつものただの練習じゃ味わえない感覚だったな……「終わるバンドなんだな」と思って演奏してみると、やっぱすごいカッコいいバンドだったんです。で、カッコいいバンドは、たぶんまたやりたくなると思うんですよね、タイミングが合えば。だから活動休止にしようってことになりました。

–そうですか。じゃあ去年の年末から今年に向けては、もう活動休止を前提に動いてたんですね。それは今回のアルバム『輝かしい未来へ』にしても?

石田:そうですね。メンバーでは、盤を1枚出してから活動休止って話になって。その時点で次のアルバムに入れるように考えてたのは4曲しかなくて。

–ほんとですか? 前のアルバムを作り終わってから、その時点で、きっと……1年半ぐらい間がありますよね?

石田:そう、1年半越しなのに、4曲しかなくて。11月末にラブ人間の企画に呼んでもらって下北沢に行ったときにUKの社長に「4曲しかないけど盤出してくれませんかね」と頼んだら、長い沈黙のあと「いや、いや、いや、いや、これまで応援してくれた人達のためにも、最後なんだから、もうちょっと頑張って曲作ってみようよ」って言われて。その時までもうこれ以上、曲作るの無理と思っていたんですけど、何故か曲が作れそうな気分になって「頑張ります」って言ってしまって(笑)。そしたら、坂本が「石田にやる気があるんだったら、俺も頑張ります」みたいなことを言い出して(笑)。その後は曲作りのスタジオも楽しい気分でやれましたね。

–その時までにできてた4曲というのは、どれですか?

石田:これには3曲しか入ってないんですけど、「コケット」「セルアウト」「国道36号線のバスタ」ですね。

–そうですか。あの、「セルアウト」にある<表現者なんてなりたくない!>という切実な歌詞はあなたの実感ではないかと思うんですが。

石田:(笑)そうですね。「セルアウト」はほんとに2ndを出してからすぐに作った曲だったんで、そのまま出てるんだと思います。当時の担当に苦労して作った曲やジャケットにダメだしされるのがガマンできなくなって、「どうダメか説明して欲しい」って詰めたら、「私もわからない」って泣かれたりして、ますます混乱してしまったり。その後、その担当の女の子が会社を辞めて、担当をはずれたこともショックだったんですけどね。

–<自己表現に陶酔するも身を滅ぼすバカ>とも唄ってますね。米騒動ってこういうふうにニヒリスティックというか、時には自分たち自身さえ批評するような視線がありますよね?

石田:はい、つねに客観視してたいなっていうのは、自分の人生のコンセプト的にも思うというか。自分の立場とか発言とか、全部いったん、一歩引いて見てから行動するタイプだと思うんです。衝動的に誤った判断をしたくないっていう保守的な……(笑)。

–うーん、まあ保守的というか、冷静というか。

石田:そうですね、そういう性格なので。それが(「セルアウト」には)ほんとに出てるなと思いますね。

–さっきのフェスの話でも、みんなが盛り上がってるのを見て、自分たち自身もうれしがったり盛り上がったりしてもおかしくないと思うんですけど、それがまったくそうではないっていう。

石田:(笑)そうですね。バンドに向いてないんじゃないですかね。

–まあ、いろんなバンドがいていいと思いますけど(笑)。坂本さんは、そういう彼女の感覚をどう思います?

坂本:すごい「石田!」って感じですよ。石田はほんとに昔から冷静でちゃんとした、僕とはもう正反対の人なんですよ。僕にない部分なので、すごいなあと思うし……僕はすごい自分勝手な人間だから、迷惑かけたんだろうなって(笑)。

石田:あはははは! 今さら(笑)。こないだもエロフェスからの帰りに泥酔してタクシーの中で、おしっこされて大変迷惑かけられましたけど(笑)。

–じゃあ残りの5曲については?

石田:「錠剤」は高校2年生の時に作った曲ですね。昔のデモテープに入れていた曲なんですけど、ずっとお世話になっていたキューンの担当の嶋村さんのリクエストで今回再度レコーディングしてみました。

坂本:あと「てじめ」は2ndに入れようかって曲が元になっているんですけど、歌詞を新しく書いてアレンジも直した形で入れたんです。

–じゃあ純粋な新曲は「真直ぐ」「ボーイミーツガール」「HOLA」の3曲なんですね。なるほど……「真直ぐ」と「HOLA」に思ったんですけど、こういう長めの曲でどう展開するかをポイントにしているところなんかは、バンドが新しい可能性に向かっていると感じたんですよ。なのに休止するのはもったいないなと思ったんです。

石田:ううん……結果的にそう見える、って感じ。それは実際、活動休止が決まって、吹っ切れたからやれたことであって。決して成長過程でこうなったわけじゃないなっていう感じですね。うちら的には。

坂本:成長、止まってたからね。ずっと曲作れなくて。

石田:活動休止も何も決まってなくて、「この時期にアルバム出すよ」って言われて、去年のあの状態からここまでに曲作ったら、もっと偏った感じになってたと思うんです。だから活動休止って決まったからできたことって多かったなって……ほんとにキレイに吹っ切れたなぁって。今聴いたら、そう思いますね。

–はい。その、吹っ切れたというのは……。

石田:「じゃあ、もう活動休止すんだから何やったっていいじゃん」みたいな。それだけでしたねぇ。だから歌もの作りたいなと思ったら「真直ぐ」みたいな、もう歌で引っ張ってくような曲も作れたし。もともとミスチルとかも大好きなんで最後にこんなタイプの曲をアルバムに入れることが出来てよかったです。「HOLA」も宇宙をイメージしてってメンバーに言って、レコーディングで後輩のかの子って女の子を呼んで、アフリカの原住民やインディアンをイメージして歌わせたり、1st作ってくれたエンジニアの岩田さんと自由に楽しく出来たし。「坂本、ラップしてほしいな」と思ったら、そういう曲作れたし(笑)。坂本は札幌で「中華一番」っていうラップ・グループみたいなのやってるんですよ。

坂本:そう言われて、「じゃあやりましょう」って。MC死後硬直なんです、僕。

–それを「ボーイミーツガール」でフィーチャーしていると。このライム、けっこう長いですよね? 歌詞が載ってないけど。

坂本:(笑)長いですね。16小節ある。レコーディングの最後にライムだけすごく考えて録り直したんですけど、没になりました。

–わかりました。で、今日ここに沖田さんがいないのは学校に通ってるからだそうですけど、つまりもう新しい生活に入ってるわけなんですね。

石田:そうですね。彼女は看護学校に行くための予備校に行ってます。

–じゃあ、ふたりは今は?

石田:私は就活中ですね。企業研究です、ずっと。バンドでの移動中でも。履歴書書いたり(笑)。

–つまり、どこかの会社に入ろうと思っているわけですか。

石田:そうなんですけどねえ……うまくいかないですよね。新卒じゃないから中途採用になっちゃうじゃないですか。でも中途採用にしては実務経験が一切ないから、もう派遣とかからのスタートになりそうです。今はツテをたどりながら、いろいろ面談とかさせてもらってるんですけど……どうなるか、わかんないですね(笑)。

坂本:僕は何もやってないですね。だらだらバイトやって、楽しく生きてます。で、上京します。金を貯めようかなって気分になってるとこです(笑)。

石田:気分だけ?(笑) 年内に上京するって言ってたから、もう半年ぐらいしかないでしょ?

坂本:で、バンドやります。札幌の3人で上京するんですけど、東京でもバンドやりたいなあと思ってて。面白い音楽を作りに、面白い人に出会いに、東京に出てこようかなと。それはチカチーオってバンドで、3回しかライヴやってないんで、まだ全然ですけど。とりあえず意見が合致したんで、出てきます。面白い人たちです。

–石田さんは、音楽は?

石田:私も次のバンド、ほぼ決まっています。高校の同級生なんですけど、ちゃんと社会人してる子とやるんで、土日に札幌でライヴする感じになると思います。今回、活動休止決めたら、日常生活のハケクチとしても自分の生活に音楽は必要だと思ったんですよね。まずは定職に就かないとダメなんですけど。

–着実に次へ向かってるんですね……。あの、米騒動に対しては「もったいない」とか「もうちょっと頑張ってほしい」という意見もあると思うんですけど。ご自身たちとしては、寂しさだとか悲しさって、どのぐらいあります? ライヴも残すところ、あと1本ですよね。

石田:……実感がないかな。という感じだし、終わってからがスタートだな、って。今はもう「米騒動って肩書にすがってた部分もあったな」って思います。

–バンドの肩書きにすがってた?

石田:うん。みんな、肩書があるじゃないですか。学生だったら、大学生とか専門学校生とか。そういうのに対して、私はもう米騒動しかなかったから。だけどそうして「米騒動ってバンドやってます」って肩書にすがってたのが、ポッてなくなった時に、自分には何ができるんだろう?って、人として人生をもう1回見直さなきゃなって思ってるんですけど(笑)。

坂本:うん、肩書なくなるの、怖いっすよね(笑)。だからもう、さっさと、ワーッて人に知られるようなバンド……ガンガンやりたいです。人にもっと知られないっす! 寂しさとかは、そんなにないかな。でも、こないだの札幌のライヴ(4月21日・SPIRITUAL LOUNGE)が一番寂しかったかな。始まった土地で、友達がいっぱい来てくれて。「ああ、みんな、しばらくは俺らを見ないんだな」と思って。だから東京のライヴはそんなに感慨深いものになる気がしないですね。札幌は「終わったー!」って感じでした。世話になった人が泣いてたりしてたしね。

石田:札幌、うん……始まった当時から見てくれてた人がいっぱい来てて。米騒動が、ほんとに制服着ながらライヴやってた時に見てた人たちも呼んで、みんな見てくれて。その日はオワリカラの企画だったんですよ。オワリカラも私たちがデビューしてすぐに知り合って、すぐに仲良くなったバンドだったから。そういう意味でも最後はオワリカラとやれたし、札幌で、しかもうちらのホームのハコでやれたのはすごい良かったなって思う。みんなに「米騒動、終わるんだよ」ってことをちゃんと伝えれたなぁと。最初「モチベーション上がらないから、もうライブもやらずに終わろうや」みたいな話も出てたぐらいだから、結果こういうふうにライブもやれて、終わるのが決まっているバンドなのに盤も出してもらって、きれいに終われて良かったなって思ってます。もう辞めると決めたら、やりたくないじゃないですか? 普通に考えたら。解散決めたからという理由でライブをキャンセルするバンドの気持ちも分かりますし。

–そうですか。エロフェス(4月6日・新宿でのイベント「ETERNAL ROCK CITY」)では楽しそうだったじゃないですか。

坂本:エロフェス? あれ、楽しかったな。普通に(笑)。

–石田さん、「楽しいね」「幸せだね」と言ってましたよ。ニコニコしながら。

石田:言ってましたっけ?

坂本:楽しそうな人がいると、こっちも楽しいよね。

石田:エロフェスは毎年出てたし、毎年いい場所を用意してもらえてたから。けっこう思い入れのあるフェスだったかなって思います。辻くんっていう1個上の、ほんとに歳が近い人が主催でやってて、大トリにしてもらって……という意味でも、すごい楽しかった。けっこうコアなバンドもいっぱいいるし、普通のフェスよりもお客さんが音楽好きというか、うちらみたいな、あんまり有名じゃないようなジャンルをいろいろ幅広く聴いてる人が多いなっていう感じがしたんで。そういう意味でもすごく楽しいんですよ、毎年。

–そうですか。じゃあ、こうして取材する人間が休止の理由を訊いたり、「残念です」みたいに言ってると思うんですけど。そういうのに接するのはどんな気持ちですか?

石田:いや、ありがたいなと思いますよ。「残念だな」って言ってもらえるようなバンドをやってたのは……いや、わかんない。(残念がられてること自体が)ウソかもしんないけど(笑)。

–あ(笑)、また客観的に見ようとしてますね。

石田:(笑)実際それがほんとなら、すごいうれしいことだなっていうか。やっぱり、それが自分の誇りにもなるし、この7年間が無駄じゃなくて、本当に良かったなって思います。

–ファンの人たちに対してはどんな気持ちですか?

石田:……「申し訳ない」とか、そういう感じは全然なくて。あ、でも最後のハコがちょっと小さすぎたっていう(笑)。最後にtricotが来てくれて本当にうれしいです。

坂本:うん。売り切れちゃったもんね、すぐに。

石田:うん。ファンの人たちには……「ありがとうございました」、という感じ(笑)。

坂本:それ以外ないね(笑)。「ありがとうございました」

石田:「各々頑張りましょう」みたいな(笑)。というか、「ファンの人のおかげでここまで続けれました」みたいな感じが全然ないんで(笑)。誰もいないハコでライブするのは寂しいから、ライブに来てくれたファンには感謝してますけど、ファンがいてもいなくても変わんなかった。だから……レスポンスはないものとして考えてたっていうか。札幌でブッキングライヴやってた頃は、お客さんをいかに突き放すかってところでライヴやってたし。あれはほんと思春期だったなと思うけど(笑)、それが根底に根づいてる感じがしますね。

–そうですか……今もそういう気持ちなんですか?

石田:いや、今はもう最後だから……さっきも言ったように、吹っ切れたっていう意味で、聴いてる人を裏切る!とか、そういう感情もないというか。アルバムも、もう自分のことを唄って終わろうっていう感じだったんで。だからライヴも自分のやりたいこと、楽しいことをやる。それを素直に。

坂本:ちょっとトリッキーな展開を今まではカッコいいと思ってたけど、今は「これ、ウザくていいね」っていう感じで曲の展開を決めてたりしますね。「ウザくて面白いね!」って。その感覚は昔と全然違いますよ。「イラッと来るなあ~!こうしちゃおう!」みたいな(笑)。

–しかし、しんみりしてないですね。こういう取材で編集者が横にいると「休止するんだから湿っぽいところを突っ込んでください!」とか言われがちなんですが。

坂本:それ、怖いなあ(笑)。

石田:誰も死ぬわけじゃないんだから、っていうね。

–最後まで、らしいですね(笑)。どうもありがとうございました。

石田・坂本:どうもありがとうございました。


2014.5.14 release
「輝かしい未来へ」
WhiteRiot/UK.PROJECT

WRT-003フロント表

<収録曲>
01. コケット
02. 錠剤
03. てじめ
04. 真直ぐ
05. ボーイミーツガール〜feat.MC死後硬直〜
06. セルアウト
07. 国道36号線のバスタ
08. HOLA


THE★米騒動(ざ こめそうどう)
石田愛実(Gt,Vo)、坂本タイキ(Dr)、沖田笙子(Ba)。北海道札幌市平岸高等学校軽音部にて結成。札幌を中心に活動中。2010年8月、10代限定オーディション「閃光ライオット」にてグランプリを獲得。2014年5月3rdアルバム『輝かしい未来へ』をリリース。
5月30日のライブにて無期限活動休止予定。
http://the-komesodo.daa.jp/


石田が敬愛するホラー映画監督白石晃士氏が手掛けたミュージックビデオ「コケット」

白石晃士(しらいしこうじ)
1973年生まれ、福岡県出身。大学在学中より自主映画を制作し、『水の中の八月』(石井聰亙監督)にスタッフとして参加する。2000年に矢口史靖監督に抜擢され『ウォーターボーイズ』のメイキング監督を担当。以降、ホラー系オリジナルビデオ作品を中心に監督をつとめ、2005年『ノロイ』で劇場作品デビュー。ほかの監督作品に『口裂け女』、『グロテスク』など。
http://ameblo.jp/occult-shiraishi/

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